ゲームの教育利用について思うこと

みなさま、こんばんわ。

 

先日、千葉大学の藤川大祐先生のゼミで特別ゲストとして

「ゲームの教育利用」についてのお話をさせて頂きました。

本来のゼミの時間では都合が合わなかったため、ゼミの時間では無かったにもかかわらず、

藤川先生をはじめとして20人程度の方にご参加頂き、とても貴重な時間を過ごせました。

 

そのゲスト講義の最後に「ゲームを利用した授業案」を考えるプチワークを実施しました。

今日はワークの準備をしている際や最中に、私がゲームの教育利用に関して考えたことを書きたいと思います。

 

ゲームを教育に利用する場合、最も重要なことは、

「それが本当にゲームである必要があるか」を考えることだと私は思います。

ゲームを教育現場で利用する場合の注意点として先行研究で上げられているのは、

 

1.十分なプレイ時間を確保すること

2.リフレクションの時間を十分に取ること

3.教師などファシリテーターの役割は極めて重要であること

 

などがあります。

 

簡単に一言でまとめますと、

「ゲームを利用した学習は座学に比べて時間も手間もがかかる」ということです。

まずゲームを利用した学習では、「操作方法を覚える時間」が余分にかかります。

プレンスキー(2009)が著書で指摘していることですが、ゲームを利用した学習では、

まず、基本的な操作方法やゲーム内での戦略という学習段階を超える必要があります。

ゲームに難易度にもよりますが、おそらくこれには最低1時間、

ゲームに不慣れな学習者であればもっと時間がかかるでしょう。

 

では、この導入の時間の長さを超えてゲームを教育に用いる理由はどこにあるでしょう。

プレンスキーの説によれば、例えば「(ゲーム内の)文化的価値観」や「価値観や倫理的な判断」をゲームによって学ぶことが可能になります。

Silseth(2012)の研究では、生徒は「Global Conflic」というゲームを利用することで、

パレスチナ-イスラエル問題において様々な経験をし、多面的な見方を獲得することが可能になっていました。

 

しかし、全てのゲーム学習がSilsethの事例のように成功するわけではありません。

彼の実践でも、私の考えでも重要になるのは「リフレクション」と「ファシリテーターのサポート」です。

ゲームにおいて、「リフレクション」は極めて重要な要素になっています。

振り返られることのないゲーム経験はおそらく、現実の世界とは関連付かず、

「ゲーム内での知識や経験」で終わってしまいます。

ファシリテーターが時には偏った(誤った)概念理解を指摘したり、他者のゲーム経験を統合することで、ゲームは大きな効果を上げることができるようになります(Egenfeldt-Nielsen et al. 2008)。

 

初めに戻りますが、このような大変さを乗り越えてでも、

そこに「ゲームを利用して学ぶべきこと」があるのであれば、積極的にゲームを利用すべきだと思います。

(私は特に現代的な問題を学習する際にはゲームは極めて効果的であると思っています。)

しかし、安易にゲームだから楽しく学べるだろうといって、

「(複雑なゲームを)短時間やらせたり」、「リフレクションをしなかったり」、「サポートをしなかったり」すれば、

ゲーム利用はおそらく上手くいかないだろうということは留意して頂けると良いと思います。

 

電車が駅に着きましたので、今日はこの辺で。